「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」

ほとんどのメディアが腫れ物扱いしたICANの平和賞受賞とサーロー節子さんの講演。NHKのニュース9は、「これを平和について考える機会に」という弱々しいコメントで番組を終えた。それさえも政府の顔色をうかがいながら恐る恐る、というのが画面から伝わってきた。

一方で、8月に放送されたNHKの特集は、心に響く強さがあった。核兵器禁止条約採択までの節子さんの半年間を記録したBS1ドキュメンタリー 明日世界が終るとしても「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」(8月12日放送)。

米国の高校で行われた講演会。アジア系女子生徒と節子さんの次のようなやりとりが印象に残っている。

「日本によって殺されたのは誰ですか?ほとんどが罪のないアジアの人々です。あなたの受けた被害も同じだと考えますか?どちらの被害がより深刻だと思いますか?」

「命を失うことに違いなどありません。殺される命に変わりはないのです。中国も日本も朝鮮半島の人も。広島と長崎について語るときに私が大切だと思うことは、日本は被害者であり加害者でもあるという意識です。どちらが悪いという問題ではありません。殺戮そのものが悪なのです。」

講演後、節子さんは、泣いていたその女子生徒のもとへ行き、語りかけた。

「質問ありがとう。あなたの悲しみはよくわかりますよ。動揺させてしまいましたか。」

「いいえ、あなたは私の質問に答えてくれました。」と女子生徒は返した。

節子さんが向き合ってきた日々を象徴する場面だ。授賞式に合わせて総合でも番組を放送してほしかった。

米国に住む日本人は、加害者としての日本について考えさせられることが多い。毎年、真珠湾攻撃のあった12月7日には必ず “Remember Pearl Harbor” というフレーズがどこからか聞こえてくる。他のアジア系留学生から日本の戦争責任や戦後教育について問われることもある。広島・長崎の話が出るときは、日本がまず加害者だったという大前提が当然ある。

私には特に印象に残っている出来事が二つある。

一つは、以前、北朝鮮問題の記事に書いた。

もう一つは、私が所属していた研究室であった一連の出来事だ。

研究室を統括する教授は、ユダヤ系アメリカ人で、親日家だった。日本はもちろん、海外のあちこちへ精力的に出かけていき、時差ボケとは無縁。空港から直接研究室に戻ってくることも多かった。

あるとき、日本から戻った直後のグループミーティングで、広島の平和記念資料館を訪れた際の話があった。外国人に英語でインタビューをしているという中学生から原爆投下についてどう思うかを問われ、教授は、「わかりやすいよう、ゆっくりと、『あれ(原爆)は必要だった』と答えた」そうだ。そして、その理由をこう語った。「当時、私は高校生で、授業中にニュースが入った。あちこちの教室で生徒が一斉に騒ぎ出したが、授業はその後普通に続けられた。当時も広島の写真を見たし、資料館でもたくさんの写真を見た。けれども、そこに写っていた惨状と同じ状況が、当時、世界中のあちこちで起こっていた。何も違いはない。あの戦争を終わらせるために、原爆は必要だった。」

私は、思う所はあったが、そのミーティングが原爆投下の是非について議論する場でないことは明らかで、何も言えず、ただその場にいたくないと思いながら教授の話を聞いていた。

ミーティング後、すぐにドイツ人の院生Cが近づいてきて、首を小さく横に振りながら “I’m really sorry…” と、彼が教授の発言を遺憾に思っていることをそっと伝えてくれた。

実験室に戻ると、別の院生Aが、Cとなにを話していたのかたずねてきた。普段あまり会話をしない私達が話していたのを珍しく思ったようだ。会話の内容を話すと、Aから「ああ、彼はドイツ人だからね」というコメントが返ってきた。それは、「彼もあの戦争で敗けた国の人間だから」という意味だったと私は理解している。アメリカ人の彼女は、教授と同じ思いだったのだろう。

サーロー節子さんは、「同じ歴史を見るにしても、その歴史を見る人の背景によって見方が違う」と番組の中で話していたが、私は、それを正にあのとき経験した。

一連の出来事の二つめは、時系列では教授の広島訪問より前のことになる。

ある日の夕方、Aが、Cを含む数人とともに大学構内にあるバーで軽く飲んでくると言って研究室を出ていった。しかし、程なくしてAが興奮した面持ちで戻ってきた。Cが「トラブル」を起こしたのだという。その「トラブル」とは次のようなことだった。

バーの席についた途端、Cがいきなり立ち上がって壁に貼られた紙を引き剥がした。その紙には、Star of David(ユダヤ人のシンボルである六芒星)が(ユダヤ人にとって)攻撃的に描かれていた1。Cの突然の行為を目にしたバイトの学部生が「勝手なことをするな」「すぐ元に戻せ」と注意すると、Cは「これが何を意味するのか知らないのか」と剥がした紙を握りしめながら怒鳴りつけた。学部生が表現の自由を主張すると、さらに口論がヒートアップした。飲むような気分ではなくなったので、なんとかその場を収めて戻ってきた。

Aは、バイトの学生も悪いが、Cの反応も過剰だった、というような感想を述べ、「冷静になるまで、しばらくそっとしておいた方がいい」と言った。

Cは、背が高く、がっしりとした体躯の白人で、ユダヤ系ではない。彼は、加害者としてのドイツ人の立場から、その貼り紙を見過ごすことができなかったのだ。

そのときの私に、彼が私に示したのと同じくらいの理解と気遣いがあったら、隣の実験室にいた彼のところへ行って ”I’m really sorry…” と声をかけていたかもしれない。けれども、私はそうしなかった。そうすべきだったと私が気づいたのは、教授の話を聞き、Cが私に言葉をかけ、その後バーでの一件を思い出してようやく、だったのだ。

今、この出来事を思い起こしながら、加害者としての日本人の心はどうあるべきかを考えている。色々な意見があるだろうが、私にとってそれは、Cが感じた怒りを共有できるような心である。

一瞬で万単位の人を消した原爆。一番の惨状は、写真に写ってすらいない。そんな恐ろしい兵器の使用さえ「あの戦争を終わらせるために必要だった」という説明で多くの人が納得してしまうほどの非道な行いとは何か。日本人として、原爆の恐怖だけでなく、それが何かも詳細に知らなければならない。

それも知った上でさらに、核兵器は必要悪ではなく絶対悪だとわかってもらう。それは容易なことではない。サーロー節子さんは、そのためのことばを探してきたのであり、今も探しているのだ。

研究室での一連の出来事の三つめは、イラク戦争前夜にあった。

イラク戦争が始まる前というのは、北朝鮮が核政策を大きく転換した時期でもある。米国が主張したイラクの大量破壊兵器保有について国連で調査が続く中、北朝鮮は、2002年から2003年の年末年始をはさむわずか1ヶ月の間に、核施設凍結解除、IAEA(国際原子力機関)査察官追放、NPT(核拡散防止条約)脱退と、核開発に向けた決定を立て続けに発表した。

私は、当時、この北朝鮮の不穏な動きの方が気になり、それについて実験室でAと話したことがある。その会話の中で、Aは私にこんなことを言った。

心配しなくてもいい。あんな小さな国、一つ二つの原爆で終わる。本当に、核を使ってしまえばいいんだ。

最後の部分は、“Seriously, why don’t we just nuke them?” だった。

‘nuke’は、「核攻撃する」の他に「(レンジで)チンする」の意味もある。彼女も後者の意味で日常的に使っていた。

この時私は一瞬絶句したが、すぐに「大勢の人があそこで生きている。そんなことはあってはならない。」と抗議した。

それと同時に、「国ごとチンする」などと恐ろしくカジュアルに脅される北朝鮮の立場を初めて考えるようになった。

今年9月、北朝鮮の核実験実施を受け、米国のヘイリー国連大使は、沈痛な面持ちで「我々の忍耐力は無限ではない」と訴え、北朝鮮に対する最強の制裁措置を要求した。とんだ被害者面だ。第二次世界大戦の終結からこの方、北朝鮮を核で脅し続けてきたのは米国である。それに抗うための核開発で厳しい生活を強いられている北朝鮮の一般市民がそれを言うならわかるが、米国がなにをそれほど我慢してきたというのか。全く理解できない。

日本でも、多くの人が何ら変わらぬ日常を送りながら、「北朝鮮」という言葉に反応して「怖いね」「恐ろしいね」と合言葉のように言い合う。今の日本の空気がイラク戦争前夜の米国の空気と似ていると私が思うのはそこだ。世界にとって真に恐ろしいのは米国の軍事力のはずだが、その認識がまるでない。

イラク戦争がそうだったように、米朝戦争が起こるかどうかは米国にかかっている。米国は、かつて戦争を終わらせるためだと言って核兵器を使ったが、今は先制攻撃で使うこともあり得ると言って北朝鮮を脅す道具にしている。

番組の冒頭で、サーロー節子さんは、「“もう一発どこかに落とせば、その怖さがわかるよ” なんて言うけれど、その一発をとめなきゃいけない」と訴えている。

ICANの平和賞受賞は、平和について考える機会にしただけで終わっては意味がない。次の一発を止めるにはどうしたらいいのか、具体的な知恵と行動が求められている。

明日世界が終るとしても「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」

12月26日(購入期限12月25日)までオンデマンドで視聴できるので、まだ見ていないという方は是非。

  1. Star of Davidと言われてもピンとこなかった私のために、それがなにを指すかというところからAは説明しなくてはならなかったが、どう攻撃的だったのかの説明は省かれた。