私は米国に13年近く住んでいた。滞在8年目に、9.11が発生した。その1年半後、米国はイラク戦争に突入していった。今の日本の空気は、あの頃の米国の空気に似ている。
当時、私は大学院生で、院生用のアパートに住み、米国人のルームメートDがいた。Dは、中流階級出身、工学研究科の院生だった。米国内でイラク戦争を支持する声が高まる中、私が何をするでもなくリビングのカウチに座っていると、Dが自分の部屋から出てきた。そして、おもむろに窓際に立ち、遠くを眺めながら、私に次のように語りかけた。
「イラクのような国が核兵器を持ったらどんなことになるか、考えるだけでも恐ろしくないか?」
私はすぐに「なぜ?」と訊き返した。
彼は私の方を向き、怪訝な顔でこう言った。
「イラクだからだよ。」
「イラクだから、という理由がわからない。」
「非理性的な国だ。何をしでかすかわからない。」
「USが悪の帝国と呼んだソビエト連邦でさえ、核兵器は使わなかった。実際に核兵器を使ったのはUSだけだよね。」
「…あれは、戦争を終わらせるために必要だったと母から聞いている。」彼の両親は、分野は異なるが、核兵器を開発したロスアラモス国立研究所で働いていた。
「日本は、物資不足で家庭の鍋釜まで集めていた。同盟国は既に降伏し、日本も既に負けたも同然だった。原爆投下がなくても戦争は終わっていたはずだし、終わりがそれほど先のことだったとも思えない。」
「…」
「次に核兵器を使う国があるとして、それはどこだと思うかと問われたら、私はUSって答える。初犯より再犯の恐れの方がずっと高い。」
「日本がUSの核を恐れる必要はない。」
「日本じゃなければいいという話じゃない。使うこと自体が間違っている。日本が犯した罪は正当化できない。でも、USの原爆投下も正当化できない。ブッシュは、先制攻撃をする構えで、核の使用も排除していない。USが原爆投下は正しかったと考えている以上、世界にとってはUSの核兵器が一番現実的なリスクだ。」
「自分はやはりイラクが核を持つことの方が恐ろしいと思うよ。」
当時、Dと同じように考える人は多く、「万が一の可能性も潰すべきだ」と米国世論の大半はイラクへの先制攻撃を支持していた。
一方で反対の声も確実にあった。私が親しくしていたリベラルな友人達は、一様に反対していた。イラクの核保有を捏造し、フセインとアルカイダを結びつけて戦争を正当化しようとする政権に対し、世界情勢に詳しい友人は、「ビン・ラディンとフセインは互いに嫌い合っているのに、どうして結託するんだ。何もわかっていない。」と憤っていた(果たして、米政府の調査結果は彼が言ったとおりだったが、米国防総省がそれを報告したのは開戦から5年後のことだった)。
米議会において、イラク攻撃に係る判断を大統領に一任する法案に反対したのは一人の女性議員だけだった。
2003年3月、米国主導でイラクへの空爆が開始された。
開戦から約1ヶ月半後、ジョージ・W・ブッシュは大規模戦闘終結宣言を出した。人的な犠牲が少なかったことから、当初は安堵の雰囲気も漂った。しかし、終戦からは程遠いと直ぐに誰もが理解した。先制攻撃の大義だった大量破壊兵器はやはり見つからず、イラクでは治安悪化が進み、米軍は撤退どころか増兵を余儀なくされた。私が日本に帰国してからも、米軍はイラクに駐留し続けた。
ISは、イラク戦争を機に台頭した。米軍が完全に撤退すると、ISが実効支配する地域は急速に拡大していった。
今、この戦争を心底後悔していない米国人がどれほどいるだろうか。
イラク戦争前から、米国は、北朝鮮を、イラク、イランと並べて「悪の枢軸」と既に呼んでいた。イラクとは異なり、北朝鮮は核を確かに保有しているが、北朝鮮にとっての核は、イラクの二の舞にならないための自衛手段だろう。米国は、核保有を正当化するときには核の抑止力をまっさきに持ち出すが、北朝鮮が同じように抑止力として核を保有することには全く理解を示さない。
朝鮮半島の歴史を専門とするシカゴ大学教授ブルース・カミングスは、米国が過去に約束を守っていたら、北が核を持つことはなかったと言う。クリントンが任期終了間際にようやくまとめた核凍結を含む包括合意を、ブッシュ・ジュニアは就任後すぐに反故にした。その上、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、先制攻撃も辞さないと威嚇した。北朝鮮は米国の核兵器によって徹底的に脅かされ続けてきた世界で唯一の国であり、その歴史は米国が韓国に数百の核兵器を配備した1950年代にまで遡る。カミングスは、そのような状況に置かれてきた北朝鮮が核による抑止力を求めない道理はないと指摘している*1。
しかし、米政府は、こうした事実には一切触れない。トランプ大統領は、金正恩を狂人扱いして北朝鮮を威嚇・挑発し続けている。北朝鮮に行動を起こさせて開戦の大義を得ようとしているかのようだ。
米国に追従するばかりの日本も、北朝鮮の立場など知ろうともせず、ただ「非理性的で、何をしでかすかわからない。」と危機感を募らせ、「安保」と名がついていれば戦争という真逆の結果をもたらす法制にでも必死に縋ろうとしている。憲法違反だろうと「安保」なら容認する、という空気だ。
イラク戦争に突入する前の米国と何ら変わらない。
振り返ってほしい。当時、小泉首相は、開戦の一時間後には米国支持を明言した。そのときの会見内容は米国の論調を踏襲するものだった*2。
そして、今、安倍首相もまた米国追従の強硬姿勢で北朝鮮に対峙している。過去に学べば、異なる判断をすべきではないかと言いたいが、日本の世論は、当時の米国世論と同じ空気で安倍首相の強硬姿勢を支持している。
本当に北朝鮮の脅威が増しているなら、「今なら勝てる」という自己都合で解散などしている場合ではないはず、と多くの人が指摘している。しかし、恐怖心に支配された集団心理は、そのような論理的思考を嫌う。理屈なく、怖いものは怖い。根拠がなくとも「私に任せていれば大丈夫」という言葉を信じたがる。人の心を操るのに最も効果的なのは、恐怖心を植えつけることなのだ。
米国は、今、イラク戦争前に後戻りできればと思っているだろう。しかし、それはかなわない。
この選挙の結果次第では、日本にも、そんな後悔をする日が来るのではないか。恐れるものを間違ってはいけないと私は思う。
*1: https://www.thenation.com/article/this-is-whats-really-behind-north-koreas-nuclear-provocations/ この記事の中で、カミングスは、今年2月、安倍首相がフロリダのトランプ大統領の別荘滞在中に北が日本の方角に向けてミサイルを発射したことについて、その背景になにがあったかを論じている。彼は、1930年代、満州で岸信介元首相が弾薬工場を管理し、東条英機が同じ満州で憲兵司令官をしていた頃、金日成も同じく満州にいて日本と戦っていたことを挙げ、金日成の孫である金正恩によるミサイル発射は、比喩的な意味で、岸元首相の孫である安倍首相が滞在していたフロリダに直接向けられたものだと指摘し、そうした歴史が紐づいた挑発の意味を全く理解せず、北との72年の対立の歴史を顧みない米政権に対し、北朝鮮は驚愕と激怒を覚えたに違いないと述べている。ミサイル発射に金正恩が実際にそのようなメッセージを込めていたのだとしても、全く通じなかったのは安倍首相も同じだろう。しかし、安倍首相が簡単に逆ギレすることを考えれば、気づかなかったことは返ってよかったのかもしれない。
http://www.diplo.jp/articles03/0302-5.html ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版「北朝鮮危機は回避不可能だったのか」ブルース・カミングス(2003年2月号)14年前の危機の際の記事
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO72089630R30C14A5MZA001/ 日本経済新聞(2014/6/2) ブルース・カミングス著「朝鮮戦争論」書評(検索でカミングスの著書の書評がヒットしたので、参考までに挙げておく。)
*2:http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2003/03/20kaiken.html 小泉首相(当時)記者会見「イラク問題に関する対応について」2003年3月20日